海賊の血を引く方必見!戦国最強の海賊衆『村上海賊』総大将が眠る周防大島でお墓参り/村上武吉の墓・筏八幡宮(山口県周防大島町)【PR】

ベストセラー小説『村上海賊の娘』(和田竜著/新潮社)で瀬戸内海に大海賊がいたことを初めて知ったという方もいらっしゃると思いますが、周防大島では海賊はそこまで遠い存在ではありません。史跡も数多く残っていますし、実際に末裔の方もいらっしゃいます。何より、村上海賊の総大将『村上武吉(たけよし)』のお墓があるんです!!
「おお、それはすごい!」と思う方はそんなに多くないかもしれませんが、続けます(笑)。というのも、私もあなたも全く関係ないとは言い切れない話だと思うからです。

村上水軍大将、永眠の地

村上家はもともと愛媛県今治沖の島々を拠点とした海賊衆です。それが先ほどの村上武吉のときに、大きく勢力を伸ばします。それはもう、とにかくめちゃくちゃ強く、織田信長も一目置いていたぐらい。しかし、天下分け目の『関ヶ原の戦い』で長男が不意をつかれて戦死。一家は離散し、周防大島に落ちてきました。

大将だった武吉は周防大島の『和田』という集落で晩年を過ごし、1604年にこの地で永眠。お墓は今も元正寺というお寺の境内に残っています。

こちらがその元正寺。
中世以来の禅宗寺院で、寺号は武吉の戒名『覚甫元正居士』にちなんで名付けられました。

お墓はこちら。
村上海賊のことを『村上水軍』とも言いますが、それは海賊というにはあまりにも組織が大きく統率がとれており、時の権力争いに水軍として加勢していたことに由来します。どっちも正しいけれど、戦国最強と言われた武吉の時代は水軍と言った方がしっくりくるかもしれませんね。

大海賊の末裔が残した石鳥居

さて、話はさらにマニアックになります。
村上武吉のお墓から少し足を伸ばすと、村上海賊ゆかりの神社があります。

その名も『筏(いかだ)八幡宮』。御神体が筏に乗って流れついたことから名づけられたという神社なんですが、海に向かって大きな花崗岩製の鳥居が立っています。一見何の変哲もない鳥居ですが……

一見何の変哲もない鳥居ですが、これを奉納した人物の名が柱に刻まれています。

うっすらとですが、読めますでしょうか。『村上三郎兵衛尉』と書いてあります。そう、村上海賊の末裔です。
石鳥居が奉納されたのは1701年、武吉の死から約100年後のことです。右の柱には「八幡大菩薩廟前之華表は武門繁栄氏屋豊穣のため、巨石をもってこれを建てる」と彫られています。武士の守護神であった八幡様に一族の繁栄を祈願したものであることが読み取れます。

じつは武吉の死後も、村上一族は繁栄しました。武吉の子や孫は毛利水軍の御船手組頭となり、村上家は代々その地位につきます。そして明治にいたるまで瀬戸内海西部の覇権を握り続けたのです。

「かつて周防大島は海賊の島だった!」
というと、語弊があるかもしれませんが、島に、瀬戸内海に海賊がわんさかいたのは間違いありません。瀬戸内で生まれ育ったわけではない私も、先祖が周防大島を出自とするかぎり海賊の血を引いている可能性は否定できません。
少しでも心当たりのある方は、ぜひ武吉の墓とともにお参りください。もしあなたに海賊の血が流れていたら、それはありがたい御利益を授かるかもしれませんよ。


●村上武吉の墓(元正寺境内)
所在地/山口県大島郡周防大島町内入433
●筏八幡宮
所在地/山口県大島郡周防大島町和田357
http://www.suouoshima.com/kanko/rekishi.html

瀬戸内Finderフォトライター 藤本雅史

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藤本 雅史

藤本 雅史

藤本 雅史/フォトライター 東京の広告会社と編集プロダクションを経て、3.11をきっかけにルーツである山口県に移住。 はじめは地域おこしと意気込むも、人口約100人の島のばあちゃんから聞いた「無人島になっても、それが自然なことならええ。またいつか人が住みつくときが来ようね」の一言に感銘を受け、肩の力が抜ける。 以来、雑誌や広告の企画・編集・執筆と少しの農業を生業としながら、大きなスケールの小さな声を求めて瀬戸内をあるく日々を過ごす。

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